スーパーの洗剤売場を通ると「弾けるアロマ」や「気品あふれるプレミアムな香り」などと銘打った、香料入り柔軟剤が所狭しと売られているのを見て辟易する。
地上波のテレビを見なくなって久しいが、今でもまだ有名タレントが「香りが長続き!」「着ている間ずっと華やか!」と満面の笑みでアピールしているのだろう。単なる柔軟剤であったはずの何かは、いつの間にか「香りをまとうためのエンターテインメント」のようなものへ変貌を遂げた。
だが、私が生活している普段のコミュニティの中に、この手の臭いをさせている人はいない。そこに漂うのは、静謐な無臭、あるいは極めてほのかに香る上質な天然香料の気配だけだ。
では、あの暴力的なまでの化学香料は一体誰が消費しているのかといえば、時折すれ違う街を歩く普通の人たちだ。私の場合は隣家の住人がこれに当たる。ベランダに出る度に頭痛や吐き気に悩まされて非常に迷惑をしている。ながらくそんな状況が続いていたら、化学物質過敏症(CS)が発症してしまった。しかしその被害の半分は、彼らの領域へ足を踏み込んでしまっていることに由来する。すなわち、安い家賃の家に住んでしまった自分のせいであるとも言えるのだ。
結論から言えば、あれは経済的、そして「精神的」に困窮した層から効率よく小銭を巻き上げる、現代の巧妙な「貧困ビジネス」の一種である。そして悲劇的なことに、それを使用している当人たちは、自らの「想像力の貧困」によってその罠に自ら嵌りに行っているのだ。
一瓶数万円の「本物」と、数十円の「まやかし」
まず直視すべきは、富裕層が愛用するブランド香水と、大衆向けの香料入り柔軟剤との間にある、決定的な「金額差」と「質の断絶」である。
ハイブランドが手がける数万円の香水は、希少な天然の植物やスパイスから抽出された精油をベースに、一流の調香師が緻密な計算のもとで作り上げる。それは肌の体温や時間の経過(トップ、ミドル、ラストノート)とともに変化し、最終的には個人の肌に馴染んで静かに消えていく。つまり、「引き算の美学」であり、個人のパーソナルスペースを侵さないためのマナーが前提にある。
一方で、数百円で買える柔軟剤の正体は何か。原価わずか数十円の石油から合成された安価な化学合成香料である。本来ならすぐに揮発して消えるはずの粗悪な匂いを、メーカーは「マイクロカプセル」なる技術で無理やり衣類に定着させ、摩擦が起きるたびに空間へ弾け出させる。いわば、周囲に強制的に匂いを浴びせる「足し算の暴力」だ。
これこそが貧困ビジネスの典型的な手口である。本物の高級品や、優雅なライフスタイルを日常的に享受できない層に対して、メーカーは「たった数百円で手に入る、ラグジュアリーな疑似体験」を売る。
大きな贅沢ができない生活の中で、ドラッグストアの手軽なボトル一つで「私は今、高級な香りに包まれている」という、安価な精神的充足(プチ贅沢)を得させるのだ。しかしその中身は、本物とは似ても似つかない、人工的に引き延ばされた強烈な記号に過ぎない。
自分の「悪臭」に無自覚な人間に、発展の機会はない
このビジネスが成立する背景には、消費者の側にある「致命的な想像力の欠如」がある。
ビジネスの世界であれ、個人のキャリアであれ、社会的に「発展」していく人間に共通する資質とは何か。それは、「自分が他者からどう見えているか」「自分の行動が周囲にどのような影響を与えているか」を客観的に予測できる、高度な他者視点――すなわち「想像力」である。
香料入りの柔軟剤を撒き散らしている人間には、この想像力が決定的に欠落している。
自らが放つ強烈な人工香料が、他人の頭痛や吐き気、アレルギー症状(いわゆる化学物質過敏症・香害)を誘発しているかもしれないというリスクに、全く思いが至らない。職場のデスクや電車の密室で、自分の周囲の空気を汚染し、他者のパーソナルスペースを暴力的に侵食しているという事実に、想像すら及ばないのだ。
「良かれと思って香らせている」「清潔感のために使っている」という免罪符は、独りよがりの極みである。自分の嗅覚が麻痺していることすら自覚できず、他者が耐え忍んでいる眉間の皺に気づけない人間が、他者のニーズを汲み取るビジネスの場で成果を出せるわけがない。
経済的な困窮以上に、この「他者への想像力の貧困」こそが、彼らが社会の階層を上がれず、現在の位置に留まり続ける根本的な原因なのである。
「清潔感」の再定義という欺瞞
メーカーのマーケティングは、この想像力の麻痺をさらに加速させる。彼らは不安を煽るプロフェッショナルだからだ。
「無臭=普通」だったはずの社会において、メディアは「汗のニオイ、大丈夫?」「生乾き臭は周囲に迷惑」と執拗に脅迫する。そして同時に、「香る洗剤を使うことこそが身だしなみであり、清潔感の証である」という偽りの価値観を植え付ける。
特に、日当たりや風通しの悪い住環境で生活せざるを得ず、どうしても部屋干しが増えてしまう層や、汗をかく肉体労働に従事する割合が高い層ほど、この「におい=悪、恥」という不安マーケティングの直撃を受ける。
結果として、部屋干し臭や生活臭を根本から解決するリソース(十分な乾燥設備や、ゆとりある住環境)を持たない層が、手っ取り早く「強い化学香料で上から蓋をする」という選択に走る。
生活困窮層であればあるほど、周囲から「貧乏臭い」「不潔だ」と思われる恐怖心から、この「買わざるを得ない」ループに組み込まれていく。一度嗅覚が麻痺すれば、より強い香りを求めて消費の頻度は上がり、毎月の支出は固定化される。これこそが、消費者を依存させ、搾取し続ける貧困ビジネスの構造そのものでなくて何であろうか。
「無臭」という現代のステータス
かつて、香りをまとうことは王侯貴族の特権であり、富の象徴だった。しかし、テクノロジーが安価な複製を可能にした現代において、その図式は完全に逆転している。
現代における最高のステータスとは、「人工的な香りが一切しないこと(無臭のコントロール)」、あるいは「他者の領域を侵さない、極めてパーソナルな本物のディテール」である。
富裕層や知的層は、他人の鼻腔に自分の存在を無理やりねじ込むような野蛮な真似はしない。彼らは、適切な住環境、確かな衣服の手入れ、そして何よりも「他者への配慮」という教養によって、文字通り「洗練された空気」を維持している。
「香料入り柔軟剤」という名の、数百円のまやかし。
それは、現代社会が生み出した格差を覆い隠すための、文字通りの「目くらまし(ならぬ鼻くらまし)」に過ぎない。自分が発するにおいにすら無自覚なまま、メーカーに踊らされて小銭を支払い続けるのか。それとも、自らの想像力を取り戻し、その欺瞞のサイクルから抜け出すのか。
この安価な罠に気づかない限り、彼らは現代の精神的貧困から、そして実際の貧困から、永遠に這い上がることはできない。
おまけ
書いていて気が付いたのだが、この問題は喫煙者にも当てはまる。現在のビジネスシーンにおいて、成功者の中に喫煙者はほとんどいない。もし居たとしても、私ならその時点で彼との取引はしない。
加えて言うなら、この問題は「内助の功」にも通づるものがある。妻の洗った洋服やハンカチから、僅かでもこのまやかしの匂いがすれば、私は即座にその人から距離を置く。誰が洗ったかなんて関係ないのだ。
実際にそうして付き合いをやめた人が沢山いる。これは私だけではなく、たぶん普通のことだ。上昇志向を持ってビジネスをするのならば十分気を付けた方がいい。
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