第1話 からの続き
イケアでソファーベッドを買うのとは違い、ディーラーでロードキングを買ってもその日に持って帰ってくることはできなかった。バイクの納車には少し時間が掛かるようだ。
教習所へ通い始めた私は、勢い余ってロードキングを買ってしまった。それはほぼ衝動買いだった。「高い買い物をするときはそんなものですよ。」と、誰かに訳知り顔で言われたが、本当にそんなものだった。そういえば今のクルマもそうだっけ。普通の感覚では200万円を超えるバイクなんて、そう簡単に買えるものではない。多少の勢いは必要なのだ。
納車には時間が掛かると言われたが、そもそもまだ免許が取れていないのだからむしろ遅いくらいの方が都合が良い。免許が取れたら連絡するからと告げて、納車はしばらく待ってもらう事にした。
はやる気持ちを抑えながら教習所へ通う日々。免許がなくたって気分はもうロードキングのオーナーだ。バイクに跨る自分の姿を想像し、街行くバイクを目で追う毎日が続いた。
都会の真ん中で生活をしていると、ハーレーなんて滅多に遭遇するものではない。もちろんディーラーに足を運べばいつだって見ることは出来るが、エンジンの掛かっているハーレーダビッドソンというものを目の当たりにする機会はやはり少ない。
夏が終わったばかりのよく晴れた日曜日。友人に会いに行くために環七を、駒沢陸橋から大森方面に向かってクルマで走っていた。週末の午前中の環七は、いつもの渋滞が嘘のように交通量が少なくて快適だった。
目黒通りを越えるオーバーパスを渡りきると、側道から一台のダイナグライドが現れた。右ウインカーを点滅させながら、車線を跨ぐ度にクルッ、クルッと首だけを回し、斜めにそしてまっすぐと、右車線を走る私のクルマの前に滑り込んできた。辺りに響き渡る ズドドドド と小気味良い重低音に反応して、運転席側の窓を思わず半分ほど下げた。
交通量は多くないから、その気になれば他の車をパスして先へ進むことが出来た筈だが、そのダイナは何故か私のクルマの前に留まった。遠くの信号が赤に変わり、前のクルマがスピードを落とす。それに続いて目の前のダイナもスピードを落とす。
信号待ちで停まったダイナグライドのハンドルは、アイドリングしているエンジンの振動に合わせてグラグラと揺れていた。なんだこの揺れ方は。ラバーマウントのエンジンってこんなに揺れるものなのか。もうすぐ自分もあれに乗るのかと思うと心躍った。
何の気負いもなく走るそのダイナは、乗用車一台分のスペースを占有しながら ごく当たり前のように車線の中央を走り続け、暫らくのあいだ僕の目と耳を楽しませてくれた。しかし数台前のクルマが右折レーンで戸惑う仕草を見せると、軽い身のこなしで先へ行って見えなくなってしまった。
あのとき前を走っていたバイクが、もしも原付だったら私は少しイライラしていたかもしれないし、スポーツバイクだったら「前に行けばいいのに」と思ってしまったかもしれない。しかし目の前のダイナグライドに対しては、不思議とそうゆう感情は生まれなかった。路上で放つ圧倒的な存在感。これがハーレーダビッドソンと云うものなのか。
納車
二ヶ月の月日を掛けて、私は無事に大型二輪免許を取得することができた。教習所へ通い始めた頃はジリジリと肌を焼く獰猛だった太陽も、今では透き通るような青い空に浮かぶ爽やかな存在になってしまった。
ディーラーに電話をして免許が取れた事を告げると、バイクを自宅まで運んでもらえることになった。待望の納車である。そして金曜日の夜、積載車に載せられてやってきたロードキングはマンションの地下駐車場に収まった。明日の朝にはコイツに乗って走れると思うと感慨一入だった。
翌朝。期待と不安が入り交じる高揚感に包まれながら駐車場でバイクに跨る。イグニッションをオンにしてスターターボタンを押すと、真新しいエンジンが目を覚ました。まるで生き物のように揺れ動く巨大なツインカムエンジン。フレームを、ハンドルを、そして僕のカラダを力強く小刻みに揺らす。
誰に見送られる訳でもない、たった一人きりでの出発が不安に拍車を掛けた。免許取得後初めての公道を、このまっさらなロードキングで走るのだ。
クラッチレバーを握り締め、意を決してシフトレバーを一速に押し下げる。この左手のレバーを放したら発進。もう後戻りは出来ない。
アクセルを少し開いてクラッチレバーを緩める。スルスルと動き出すロードキング。2速、3速とシフトアップをする。スコン、スコンと極めてスムーズに反応するトランスミッション。最初の信号で初めてブレーキ。そして初めてのシフトダウン。すべての操作に対して、カチッとした新車の反応が戻る。
「なんだ普通に走れるじゃないか。」
その大きさと重さに怯み闇雲に感じていた不安は、走り出すとすぐに吹き飛んでしまった。
槍ヶ崎交差点を中目黒方向へ。坂を下って山手通りを越えると流れのゆっくりとした片側一車線の駒沢通り。初めて走る道としてはお誂え向きだ。車列に収まってシフトアップとブレーキングとシフトダウンを繰り返す。お互いのカラダを馴染ませるかのように同じ動作を幾度となく繰り返すと、少しづつ余裕が出てきた。入っていた力が肩から抜けて、そろそろこの渋滞から抜け出したいなと思い始めた頃、目の前に環七の看板が現れた。そして反射的に左のウインカーを出した。
環七のガード下の陽の当たらない交差点を左折すると側道から本線に合流だ。少し多めにアクセルを開くと ドドドドドッと力強く、しかしスムーズな加速が始まった。右後方を目視で確認しつつ、本線を走るクルマの隙間に滑り込む。片側二車線、所に依って三車線。交通量も多いが流れる速度も速い。流れに乗って少しづつアクセルを開くと強大なトルクが軽々と車体を前へと推し進める。時速60キロ、70キロ、80キロ。初めての速度域に舞い上がる自分。ヤバイ、楽しい。
行き先も考えずにただ飛び出してきただけだから、なんとなく気分で走る。環七をそのまま走っていたら大井埠頭に行き着いた。そして羽田空港が見える公園へ。それから東京タワーにレインボーブリッジ。クルマに乗っていたらわざわざ訪れることなんてない場所を点々とする。
バイクに乗った途端、見慣れたはずの東京がまったく違うもののように見え始めた。道なんて目的地へ辿り着くための通路に過ぎないと思っていたのに、いつもの走りなれた道さえが ただ楽しくて、暗くなるまで走り続けた。今朝の不安は跡形もなく消え去って、こいつとだったら何処までだって走って行ける、そう思った。
そして、まだ知り合ったばかりの新しい相棒に、「どうぞよろしく。」と挨拶をした。
***
プライスタグに怯んで、ハーレーを手に入れるということを少し躊躇していた私は、結局衝動買いという暴挙に出ました。しかし今となってはそれが良かったのだと思います。むしろ自分の思い切りの良さに感謝しています。あの衝動買いがなかったら私の人生はいったいどうなっていたのだろう、今よりだいぶつまらないものになっていたのではないだろうか、そう思うと眩暈すら覚えます。
そういえば納車後初めて走るコースの始めに、あのダイナを見かけた環七を無意識のうちに選んでいたんだなあということに、この原稿を書きながら気が付きました。私が市街地を走る時、大人しくクルマに交ざって走ることが多いのは、明らかにあの時のダイナの影響です。
信号待ちの交差点。前のクルマに従って並んでいると、時々スーッと下がる隣のクルマの窓。無関心を装うかのように顔は前を向きながらも、送られてくる視線の先には生きものの様に鼓動するエンジンと、グラグラ揺れるハンドルに乗せられて振動する僕の左腕。
信号が青になり前のクルマが動いても、こちらの発進を待っている踏まれたままのブレーキ。その僅か数秒の時間が、彼の興味の有りようを物語る。
そんなとき、僕はいつも目を合わせないまま軽く左手を上げて走り去る。隣の彼はいつかの自分。彼もいつかバイクに乗り始めてくれれば、僕はうれしい。
第3話 へ続く
コメントを書く